「家督」はどう生まれたか
古代から明治民法まで、相続1200年の日本史
「相続といえば、昔は長男がすべてを継ぐものだった」——多くの人が漠然と抱くこのイメージは、いつ、どうやって生まれたのでしょうか。実は日本には、財産をきょうだいで分け合った時代も、女性が所領を継いだ時代もありました。701年の大宝律令から1898年(明治31年)施行の明治民法まで、約1200年におよぶ相続の変遷を、史料の限界にも触れながら辿ります。本記事は「なぜ法定相続情報証明制度は生まれたのか」の前日譚です。
1律令国家と「二つの相続」— 701年、大宝律令
日本の相続法制の出発点としてまず挙げられるのが、701年(大宝元年)制定の大宝律令です。刑部親王・藤原不比等らが唐の律令を日本の実情に合わせて編纂したこの法典には、相続に関わる規定として大きく二つの系統があったとされています。
一つは「継嗣令(けいしりょう)」。皇族や上級官人の地位・身分を誰が継ぐかを定めた規定で、三位以上の官人については正妻の長男(嫡子)が地位を継ぐことを原則としたとされます。もう一つは「戸令(こりょう)」の応分条(おうぶんじょう)。こちらは財産を誰がどれだけ取るかを定めた規定で、復元研究では「嫡母・継母・嫡子は2分、庶子は1分、女子は男子の半分」といった按分比率が紹介されることが多いのですが、これは主に後の養老令からの復元案であり、大宝令の時点で同じ比率だったかは確証がありません。
注目したいのは、この時点ですでに「誰が跡を継ぐか(地位)」と「誰が財産をもらうか(財産)」が別々の令で規律されていたことです。この「地位」と「財産」の二元主義は、形を変えながら実に明治民法まで続く、日本の相続法制の通奏低音になっていきます。
大宝律令の令の本文は現存しません。私たちが知る律令の相続規定の多くは、718年(養老2年)制定の養老律令や中国の唐令をもとに、中田薫・石井良助ら法制史学者が復元・推定したものです。復元案は学者によって異なり、律令期の相続の実態は、俗説が語るほど明快に確定した像ではありません。この分野の研究者自身が、史料の乏しさゆえの「推論の危うさ」を自戒的に述べているほどです。
2平安貴族の「家」と、まだ緩やかだった財産承継
奈良から平安初期にかけて、相続の中心は依然として氏族の祭祀権や位階といった「地位」の継承でした。それが平安時代を通じて、受領や実務官人の官職が父子で継がれ「家業」となっていく過程で、「家(いえ)」という制度的なまとまりが徐々に形づくられていきます。
一方、財産のほうは分割相続が原則で、生前贈与や処分状による生前処分が主流だったとする整理があります(実務家による整理であり、一次史料に基づく学術的裏付けは限定的です)。またジェンダー史の研究では、平安期は女性の財産保有・相続を含む双系的な承継の要素が強く残っていた時期と位置づけられることが多く、「日本の相続は昔から男系一本槍だった」という単純化は史実に合いません。
そして平安末期、武士団の中に次章の主役となる仕組みが芽生えます。事典類が「惣領制」の成立を平安末期と位置づける、その萌芽です。
3鎌倉武士を蝕んだ分割相続 — 惣領制の光と影
鎌倉時代の武家の相続は、意外にも分割相続が原則でした。所領の中核は嫡子(惣領)が継ぎつつ、庶子にも所領を分け与える。そのうえで惣領が一族を統率し、幕府への軍事動員(いざ鎌倉)や公事負担の窓口、氏神祭祀の統轄者となる——この体制が惣領制で、鎌倉幕府によって法制化されました。分割は生前の「譲状」による指定が主流で、紛争があれば幕府の裁判で決着がつけられました。
一見、公平で穏当な仕組みです。しかしこの制度には時限爆弾が仕込まれていました。所領は世代を経るごとに細分化され、鎌倉中期以降は開発できる未墾地も枯渇。相続のたびに一人当たりの取り分は縮小し、所領が小さくなりすぎた御家人は軍役を負担できなくなり、借金を重ね、所領を手放して窮乏していきました。「みんなで分ける」が一族を貧しくしたのです。
元寇の戦費負担が追い打ちをかけ、幕府は1297年(永仁5年)、御家人の所領の売買・質入れを禁じ、すでに手放した所領の無償取り戻しを命じる永仁の徳政令を発令します。日本初とされる徳政令は、分割相続が行き着いた窮乏への、なりふり構わぬ応急処置でした。
教科書で有名な永仁の徳政令ですが、御家人・金融業者・幕府のいずれにも利益をもたらさず、経済の実態と合わないまま、わずか1年ほどで事実上撤回されたとされます。御家人は徳政令のせいでかえって金を借りられなくなった、という指摘もあります。「善意の政策が誰も救わなかった」典型例です。
なお、この時代の女性は当初、所領を相続できました。しかし鎌倉中期以降、女性の相続は本人一代限りで死後は惣領へ返す「一期分(いちごぶん)」という制約付きの形へ移行していったとされます。所領の分散を防ぐ工夫であると同時に、女性の相続上の地位低下と評価されています。
4「単独相続」への静かな転換 — 南北朝から室町へ
分割の余地が尽き、限られた所領を巡る一族内の紛争が頻発するようになると、所領の規模を維持するために「嫡子だけが家督(家長の地位)と所領を継ぐ」単独相続への移行が進みます。日本大百科全書はこの流れを、鎌倉中期以後にしだいに分割相続が行われなくなり、南北朝期から単独相続へ移行、室町時代に確立した、と描いています。
注意したいのは、この転換が「何年何月」と特定できる出来事ではないことです。単一の法令や事件で切り替わったのではなく、鎌倉後期から室町にかけての緩やかで複線的な移行でした。軍事的必要、経済合理性、慣習の定着——複数の要因が絡み合った結果であり、「分割相続の失敗という教訓から単独相続が選ばれた」という分かりやすい因果も、史料的に厳密に立証されているわけではありません。室町期に嫡子相続が原則化した後も、現実には家督を巡る内紛が絶えなかったとする指摘があります。
この過程で、庶子は独立した所領主から惣領(家督)に仕える家臣的な立場へと変わり、鎌倉時代の惣領制は解体していきました。「家督」を一人が丸ごと継ぐという、後の時代のイメージに繋がる形が、ここでようやく輪郭を持ち始めます。
5江戸の家督相続 — 武士・商人・農民、三者三様
江戸時代、幕府の権力を背景に、武家における嫡子単独相続=家督相続が確立します。この時代の「家」は、個人の集まりではなく継続する制度体でした。戸主は家産・家業・祭祀・家族の扶養を包括的に承継し、先代の債務も放棄できずに引き継ぐ——「家」を続けることそのものが相続の目的だったと説明されます。
興味深いのは、相続の作法が身分・職業によって違ったことです。学術的な一次資料での厳密な検証はなお課題ですが、実務解説では次のように整理されることが多いです。
- 武士 — 家督相続。「家」の存続と主君への奉公義務の承継が最優先の単独承継
- 商人 — 家業相続。暖簾と事業の承継が中心で、分家は比較的自由に設立された
- 農民 — 分割相続も行われたが、幕府の「分地制限令」により無制限ではなかった
その分地制限令は、田畑を分けすぎて経営が零細化し、年貢を負担できなくなることを防ぐためのルールでした。
つまり江戸時代の日本には、「国民共通の相続ルール」はまだ存在しません。武士か、商人か、農民か——身分と地域によって、相続の姿はバラバラでした。これを一つに揃える大事業が、次の時代にやってきます。
61898年7月16日 — 明治民法、家督相続を「国法」にする
明治維新後、新政府は武家の慣行だった家督相続を戸籍法・民法へと組み込んでいきます。1872年(明治5年)には戸主を中心とする壬申戸籍が編製されました。では、庶民の相続はどうなったのか。かつては「秩禄処分(1877年)を機に平民へ広がった」と説明されることもありましたが、太政官布告の照会記録を整理した研究によれば、実態はずっと入り組んでいました。
1870年(明治3年)の新律綱領には嫡長男子の家督相続権を確保する規定があり、こちらは華士族・平民の双方に適用されていたとされます。1873年(明治6年)1月には家督相続に関する明治以降最初の私法的立法となる太政官布告第28号が出され、同年7月の布告第263号が総領男子(嫡長男子)の相続権を強化します。ところがこの263号は華士族限定の規定で、平民は明文上除外されていました。では平民にも準用されるのか——現場の解釈は、実際に揺れました。
1874年(明治7年)、太政官布告第263号が平民にも準用されるのかを国に照会した広島県には「適用されるべき」(2月)、滋賀県には「適用を否定」(同年7月)と、同じ年に正反対の回答が中央から返っています。同じ布告の解釈が地域と時期で割れていた——相続ルールが国全体で一枚岩になるまでの道のりは、教科書の一行が語るよりずっと込み入っていました。
この混乱は1876年(明治9年)、正院の指令が「263号布告は平民には適用されない」と明確化して決着します。つまり明治民法の施行前、平民の家督相続には全国統一の確定した法的根拠がなかったと読めるのです。なお、これはあくまで法制度の話で、慣習として庶民の間に嫡子単独相続がどこまで広まっていたかという社会実態は、また別の(そして史料的にはさらに難しい)問題です。
法典化の道のりも平坦ではありませんでした。1890年(明治23年)公布の旧民法(ボアソナード民法)は「民法出テ、忠孝亡ブ」と批判した法典論争によって施行が延期され、結局実施されないまま終わります。
1898年(明治31年)7月16日——この日、家督相続は初めて成文の国法になりました。戸主の地位(家族に対する居所指定権・婚姻同意権など)と家産を、原則として嫡出長男子が単独で承継する「家督相続」。戸主以外の家族の財産承継は「遺産相続」として別建てで規律されました。「誰が跡を継ぐか」と「誰が財産をもらうか」を分けて考える——律令の継嗣令と戸令以来の二元主義が、1200年の時を超えて近代法典に再来した、と整理することもできます。
そして決定的だったのは、この制度が戸籍制度と結びつけられたことです。江戸期には身分ごとにバラバラだった相続の慣習、明治初期には華士族と平民で法的根拠が別立てのまま揺れていた家督相続が、近代国家の法典編纂によって全国民に及ぶ画一的な法制度として確定しました。家督相続が身分を問わず明確で統一的な法的根拠を持ったのは、この明治民法が初めてだった可能性が高いのです。戸籍の上で「戸主」が明示され、家督相続の発生が戸籍に刻まれる——この仕組みの痕跡は、現代の相続で古い戸籍を読むときにも出会うことになります(詳しくは「戸籍を読む — 明治から令和までの様式変遷150年」へ)。
7エピローグ — そして1947年へ
律令の二元主義から、鎌倉の分割相続とその破綻、室町の単独相続への転換、江戸の家督相続、そして明治民法による法典化まで。「長男がすべてを継ぐ」というあのイメージは、太古からの不変の伝統ではなく、失敗と試行錯誤の末に選ばれ、1898年に国法として固定された、歴史のひとつの到達点でした。
そしてこの話には、続きがあります。明治民法の家督相続制度は、約半世紀後の1947年、日本国憲法の「個人の尊厳と両性の本質的平等」の理念のもとで廃止されます。「家」の解体は戸籍の形を根本から変え、その変化こそが、現代の私たちが相続のたびに何通もの戸籍を集めて回る不便——そして2017年の法定相続情報証明制度の誕生——に直結していきます。
続きは、こちらの記事でどうぞ:「なぜ法定相続情報証明制度は生まれたのか — 戸籍をめぐる80年の制度史」
8参考資料
本記事は以下の資料に基づいて構成しています。律令期・中世の記述には史料的制約があり、本文中でも「〜とされる」等の留保を付した箇所は学説・復元研究に依拠しています。
- 法務省 民法(相続関係)部会「参考資料2:これまでの改正の経緯」
https://www.moj.go.jp/content/001143587.pdf - 国立公文書館「御署名原本・明治三十一年・法律第九号(民法第四編第五編制定)」
https://www.digital.archives.go.jp/file/155157 - 日本法令索引「民法(第四編第五編)明治31年6月21日法律第9号」
https://hourei.ndl.go.jp/simple/detail?lawId=0000004758¤t=-1 - 亀田隆之「律令時代の相続制」『法社会学』1956年7-8号(日本法社会学会)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsl1951/1956/7-8/1956_7-8_1/_article/-char/ja - 浅川哲郎「わが国における相続税制の展開(前編)」九州産業大学『商経論叢』58巻2号
http://repository.kyusan-u.ac.jp/dspace/bitstream/11178/7777/1/asakawa58-2.pdf - コトバンク「大宝律令」(日本大百科全書・世界大百科事典ほか)
https://kotobank.jp/word/大宝律令-92014 - コトバンク「惣領制」(日本大百科全書・世界大百科事典・ブリタニカ国際大百科事典)
https://kotobank.jp/word/惣領制-89764 - コトバンク「永仁の徳政令」
https://kotobank.jp/word/永仁の徳政令-35975 - コトバンク「分地制限令」
https://kotobank.jp/word/分地制限令-128599 - 日永田一憲「日本の相続制度の変遷とともに考える」(相続学会講演資料)
https://www.souzoku-gakkai.jp/wp-content/uploads/b8bb443a4273db3f247a849bd25c633e.pdf